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切断ヴィーナス

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革共同政治局の敗北1975〜2014

あるいは中核派の崩壊

水谷保孝 岸宏一著

四六判 上製 448頁 定価:本体3,200円+税

1960年代以来、日本におけるラディカル左翼のトップランナーだった中核派が、テロ・リンチの果て政治的頽廃を重ね、無惨に顚落して行く……。闇の怪人=清水丈夫革共同議長が仮借なくひき剝がされて行く。分裂と崩壊を大胆不羈に剔抉する、痛恨のドキュメント全950枚。

紹介されました

▼『映画芸術452号』絓秀実氏
(…)著者たちが属していた中核派は、華青闘告発をもっとも深刻に受け止めた政治党派であり、著者たちは1970年の中核派の政治路線の変更に力を注いできた中心的な政治指導部であった。この政治路線は「血債の思想」と呼ばれた。しかし、『敗北』に詳述されているように、中核派はマイノリティー運動を重視するその路線を破棄して、古典的な(あるいはサンディカリズム的な)労働運動路線へと再び大転換する。およそ2000年代後半のことであり、この路線転換のなかで、著者たちは除名処分となる。 /これは単に一新左翼政治党派内の問題にとどまらぬ、象徴的な出来事だったろう。『敗北』に従うかぎり、マイノリティー運動の重視、つまりさまざまな「差別」を問題化していくほかない「血債の思想」に、労働者など一般党員は耐えられないというのが、労働運動路線への転換の背景にあった様子だからである。(…)

著者紹介

▼水谷保孝
一九四五年一〇月、横浜市生まれ神戸市に転居。六四年、長田高校を経て、早稲田大第一政経学部入学、雄弁会加入。一一月マルクス主義学生同盟・中核派、六五年八月革共同に加盟。六六年学費・学館ストライキで無期停学処分。学友会副委員長に選出。処分のまま中退。六七年一〇・八羽田闘争、佐世保エンプラ闘争(米軍基地突入)、王子闘争で逮捕・起訴。六八年五月から日大闘争オルグ。六九年三月全学連(中核派)副委員長、七月同書記長。八・一四沖縄嘉手納基地突入闘争を指揮。八月予防検束。七〇年七月、七・七自己批判に取り組む。青年アジア研究会事務局長。対カクマル戦で二度逮捕・起訴、下獄。七七年一月前進編集長、革共同政治局員。一七年間編集長の後、反戦闘争担当、諸戦線担当。筆名・峰岸武夫。〇六年一一月に革共同を離党。

▼岸 宏一
一九四七年七月、渋川市生まれ。六六年、渋川高校を経て、慶応義塾大経済学部入学、七〇年中退。六七年砂川闘争、一〇・八羽田闘争参加、一二月マルクス主義学生同盟・中核派加盟。六八年王子闘争で逮捕・起訴。六・二六新宿米タン阻止闘争で陶山健一とともに逮捕・起訴。一二月、革共同加盟。六九年五月全学連(中核派)書記局。八月、全学連書記長代行、全国全共闘書記局員。六九年一一月決戦の総指揮者の一人として決起、七〇年二月に事後逮捕・起訴。七一年、破防法裁判闘争を支える会事務局。カクマルの七四年一・一四破防法弁護団襲撃に本多延嘉書記長防衛に当たり重傷。七六年六月革共同東京南部地区委員長。八一年一月、革共同の三里塚闘争担当責任者。以後二五年六カ月間、三里塚現地を中心に活動。八九年一二月、政治局員。筆名・麻生浩。〇六年七月に革共同を離党。

目次

序章 中核派は疾風怒濤の時代を開いた
第1部
  〇六年三・一四党内テロ・リンチと諸結果
第1章 三・一四Ⅱの本質
第2章 三・一四Ⅱの発生
    〇六年三〜九月[第一局面]
第3章 杉並、東西分裂、七月テーゼ
    〇六年一〇月〜〇八年四月[第二局面]
第4章 動労千葉特化路線と粛清の党
    〇八年四月〜[第三・第四局面]
第5章 党内リンチ事件の根拠と構造
第2部
  政治局の腐蝕はいつから始まったか
第6章 本多書記長虐殺を超克しえたか
第7章 歪曲と転落の分岐点=第五回大会
第8章 本多内乱・内戦論の改ざん
第9章 清水政治局の堕落と党員の英雄主義
第10章 九一年五月テーゼの虚実
第11章 “革共同政治局の敗北”から
新しい道へ

2章より

かつて本多書記長は、「党がある前に共産主義者のおのれがある」と強調してきた。そして、「その共産主義者の政治的結集体が党なのである。たとえ一人になってもおのれが党であるということ、そうした共産主義者の目的意識性こそが党の生命線である」と語っていた。こうしたことを、学生時代からさんざんたたき込まれてきたはずの筆者らが、恥ずかしいことに、その党組織論の原点的立脚点をすっかり失ってしまっていたのである。

8章より

小なりといえども日本階級闘争を揺り動かし日本帝国主義権力を脅かした革共同の党首の器では清水はなかったということである。器でなかった人が否応なしにそこに座った。とはいえ、器でなかったとしても、本多時代を超える党と党指導部をつくる道はあったはずである。いうまでもなくそれは、政治局を集団指導体制として形成する道である。にもかかわらず、……清水は自らを変革するのではなく自らの器量に合わせた組織に再編するという意識的な選択をしたのである。

「あとがき」より

「五〇年間も革命運動をやっていて革命を成就させえない党は解党すべきである。……革命党は一世代の事業であり、世代交代は不可能である。また革命党の人格的継承も不可能である。日本共産党も……宮顕の世代とその指導体制はすべて退陣し、不破が新たに指導体制をつくる以外に党はつくれない。」……本多さんの前記の言葉に、私は納得した。革命は困難な事業であり、現実的には可能性は薄いと実感しつつも、本多さんと一緒なら不可能を可能にしてくれそうな気持にしてくれるのだった。

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